HISTORY挑戦への歴史

創業者から受け継ぐもの

いつの時代も、
お客様の目線に立って
想像することが
すべての源である。

「お客様が要望するものを形にし、
喜んでいただくこと」、
お客さまに満足していただける
品質・サービスを提供すること」
今もなお品質方針の中に
この精神は受け継がれています。

創業者 阿尾 謙司

創業者から受け継ぐもの

木鹸化学工業所として創業

木鹸化学工業所として創業

創業時の社名は木鹸(モクケン)化学工業所といいました。
その後、株式会社モクケンと改称。
社名は当時の主力商品であった”おがくずパウダー入りの石ケン” に由来しています。

当時のモクケン石鹸

石鹸カスと呼ばれる石鹸成分の残りを溶かし、木クズ(=オガクズ)を大きなすり鉢のような容器に入れて混ぜ合わせたもの…創業者が当時の友人から教わり、廃品から造った半練り状の石鹸が最初の製品でした。
木屑が頑固な汚れを絡め取るのに優れていたので、工場などでは、油汚れを簡単に落とせるスクラブ効果のある手洗い石鹸として、好評でした。

50年代 洗剤メーカーとして始動~常に効率化を考えて~

1949 【昭和24年7月】
初代社長 阿尾謙司が大阪市都島区でモクケン化学工業所として発足し、工業用特殊洗剤の製造販売に従事。

営業ルートは、車産業へ。

創業当時、朝鮮戦争の影響で、軍需関連産業の鉄鋼業において、業務用石鹸は、非常に需要が高かったものの、既にライバル商品も多く、後発メーカーであった当社は、まだ発展途上にあった自動車産業界へ営業活動の主軸を置く選択をしました。
このことが、後に時代の流れを掴むきっかけとなります。

4321の秘訣

当時の営業活動は、郵便やハガキの返送による注文方法が主流でした。通信手段がハガキでは、受注から商品までの時間ロスがあり、必要な時にモノがなく、お客様にとっては不満が募るばかり。このお客様の不満や不便を解消するために講じた策が、当時の中小企業にはまだ普及していなかった、電話の導入でした。便利さと分かりやすさを追求し、電話番号は印象に残る「大阪35局4321」に。受注体制の機動力を確立させ、顧客満足度と売上が大幅に向上しました。

改革と効率化

当時は、自転車に荷台を付けて配送するのが一般的でした。電話導入による受注の増加とともに、納品形態も効率化を図る時期に来ていました。その解決策に投じたのが、”三輪自動車の購入”でした。製造面でも、機器を導入し、量産に向けた体制を整え、機械化を図り企業体制の礎を着実に構築。投資や先を見据えた改革精神がうかがえます。

60年代 時代のめまぐるしい変化に沿った改革

1960【昭和40年6月】
大阪市城東区放出に製造部門を独立。
1969【昭和44年7月】
大阪市都島区にモクケン化学工業株式会社を設立。
当時の大阪市内の様子

当時の大阪市内の様子

嬉しい悲鳴

日本は車社会の時代へと変化して行きました。自動車産業界で営業活動を本格的にスタートさせたことが功を奏し、その結果、国内あちこちに営業所、修理工場など更なる活動の拠点が増えて、需要が急増。社員一人当たりの重要な得意先件数が200件まで増加しました。”お客様第一で、製品とサービスを提供する”この積み重ねが会社組織を大きくし、企業としての地盤を固めました。

新たな商材の開発

これまで主力商品であったオガクズ石鹸(=木鹸)は、汚れ落としや研磨剤としての役割が大きいオガクズが洗い場に残り、汚れが目立ったり、排水溝の詰まりの原因になったりと改善を求める声も増えてきました。お客様の要望に応えたい!その思いが”新たな商材のヒット”へと繋がりました。汚れ落ちの機能はそのままに、デメリットを解消する洗い流しやすい研磨剤を配合した、工業用洗剤「ユーゲル」が新登場!瞬く間に業界に浸透し、リピートにつながるヒット商品となりました。

70年代 システム化の時代。次世代企業を目指して

1974【昭和49年7月】
東京都板橋区船渡に東京営業所を設立。
本格的に全国区に販売を開始。

第一次・第二次オイルショックであらゆる物資が一時的に枯渇し、各社メーカーは原料調達すら困難な状況に。しかし、逆境にもめげず、製造規模を拡大し、次世代に次ぐ企業へと成長。

システム化の時代。次世代企業を目指して

東京進出

「手触りの優しスクラプで、頑固な汚れが落ちる上、流れやすい軽いスクラブは洗面所も汚さず詰まらせない。」”お客様が要望するものを形にし、喜んでいただくこと”シンプルで一番大事なことがこの商品に詰まっている!そう確信した当時の社員(後の役員)は、ユーゲル拡販のために、一つを車に積み込み東京へ上京。不屈の精神で東西の流通に商品をうまくのせ、成功を成し遂げました。当時の創業者の精神は、ともに会社を支えてきた後の歴代社長達へと受け継がれ、このような数々の功績を残しました。

1976【昭和51年7月】
大阪市城東区放出に第二工場を新築。

本格的に多品目の開発に着手するため、研究所も設置し、新たな処方開発にも意欲的に取り組みました。

オイルショックを逆手に

オイルショックであらゆる物資が一時的に枯渇し、各社メーカーは原料調達すら困難な状況に。「少ない原料を買い置きしたまま、コストに見合わないモノは造らないメーカー」、「高騰する原料に合わせて、上乗せして高く販売するメーカー」が増える中、いずれのメーカーにも続くことなく、”お客様目線で考え、安定した価格で製品を造り続ける”に徹しました。その結果、後に お客様の信頼を得、さらなる企業としての機動力や信頼関係を築き、不利な状況でも工夫するという技術ノウハウを得ました。

80年代 化粧品製造業として新たな一歩

1983【昭和58年1月】
昭和57年12月代表取締役 社長 阿尾謙司死去に伴い、
阿尾浩和が2代目代表取締役社長に就任。

これまでのモノ創り精神を引き継ぎ、新たな企業理念を掲げました。

経営理念
『社員が健康で楽しく働ける職場、
そして社会に貢献し、子々孫々に誇りたる会社』

1983【昭和58年11月】
東京都板橋区大門に東京営業所を新築。
1986【昭和61年1月】
大阪市北区大淀にモクケン化学工業株式会社の化粧品部門が独立し、有限会社コスモビューティーを設立。
1983【昭和58年11月】
埼玉県比企郡小川町に東京営業所および
関東工場として新築。

数年前に新築した東京営業を売却してまで、
立ち上げた新工場への想い、それは、
「今後化粧品メーカーとして歩むこと」への挑戦でした。

化粧品製造業として新たな一歩

化粧品第1号の完成「アロエクリーム」

「クリームを作って欲しい」というお客様の一言が全ての始まりでした。クリームを作る為のノウハウを何も持たない企業が、一念発起して取り組んだ最大の難題。ありとあらゆる情報を集め、夜を徹して試行錯誤を重ねた上に完成したこのクリームは、何としてでもお客様の要望に応えるのだという、強く揺るがない思いが1つの希望の光を見出し、今日の”コスモビューティーの礎”となりました。

化粧品第1号の完成:アロエクリーム
コスモビューティー誕生の原点ともいえるこの出来事は、創業者の想いとともに、今後も語り継がれていくことになる事であろう。

90年代 グローバルスタンダードを目指して

1990年代に入り、めまぐるしい成長を遂げ、現在のコスモビューティーが形づいてきた時代。

1991【平成3年7月】
有限会社コスモビューティーから株式会社コスモビューティーへ法人組織変更。
1992【平成4年5月】
大阪市此花区に本社および関西工場製造部統合の為、本社ビルを新築、移転。それに伴い、商号もモクケン化学工業株式会社から株式会社モクケンと変更。
1996【平成8年4月】
株式会社モクケン ベトナム ホーチミン事業所開設。
1997【平成9年9月】
ベトナム ホーチミンにヴィナコスモ株式会社を株式会社モクケンの100%出資で設立。
1999【平成11年11月】
大阪市此花区の株式会社モクケン(大阪市此花区)横にコスモビューティー本社工場を新築。
モクケン大阪本社・工場

モクケン大阪本社・工場

VINA COSMO

VINA COSMO

コスモビューティー大阪本社・工場

コスモビューティー大阪本社・工場

世界基準を目指して

国際化社会となり、競合先は国内だけではとどまらず、世界標準のコスト意識で事業展開することが求められるようになりました。社長自ら世界何ヵ国も視察に巡り、ベトナム工場の設立にこぎつけ、コスト対策という課題を解決。お客様目線に立ち、「安くても良いモノを造る」ことに徹底的に注力し、”企業活動の基盤を強化”しました。また、グローバルな目線を持って事業拡大を図るために、外国人を積極的に採用しました。

2000
年〜
勇往邁進 更なる進化

2000年を迎え、更なる挑戦に備えて生産体制を拡張し、進化し続けます。

2001【平成13年10月】
埼玉県比企郡滑川町に東京営業所および関東工場を新築移転。
2001【平成13年10月】
株式会社 茂科 上海事務所開設。
関東工場

関東工場

2004【平成16年3月】
中国 上海市に島屋通商国際貿易公司を設立。
2004【平成16年3月】
東京営業所および関東工場第一期拡張。
2005【平成17年2月】
山川義治が3代目代表取締役社長に就任。
島屋通商国際貿易公司

島屋通商国際貿易公司

中国進出

国際化競争が当たり前となり、良いモノを創ることに更なる企業努力が問われる時代…。お客様の要望も多様化し、容器資材の調達などにおいては、デザイン・コスト・質のバランスをいかに組み合わせるかが、企業のノウハウの1つでもあります。その拠点として、上海に事務所を設立し、品質にこだわる厳しい基準で、良質なものを安定供給する、“製品づくりの基盤を強化”しました。組織体制にも国際化を反映させ、あらゆる国籍の外国人スタッフが企業活動をサポートしています。

現代 勇往邁進 更なる挑戦へ

お客様の要望にもっとフレキシブルに対応できる体制を構築。

2006【平成18年6月】
東京都港区に東京営業所開設。
2006【平成18年9月】
東京営業所および関東工場第二期拡張。それに伴い、クリーン制御面積804.1㎡の医薬品製造と同環境の工場を設置。
旧 東京本社

旧 東京本社

化粧品製造業中心とした企業展開を本格的に始動。

2007【平成19年6月】
本社を大阪市此花区より、東京都豊島区東池袋に移転。
2007【平成19年7月】
株式会社モクケンと株式会社コスモビューティーが経営資源の集約の為合併し、株式会社コスモビューティーとして発足。
2008【平成20年4月】
株式会社コスモビューティーの子会社である株式会社メディコスにおいて、医薬品製造業許可を取得。
メディコス製薬株式会社 (旧 株式会社メディコス)

メディコス製薬株式会社
(旧 株式会社メディコス)

医薬品製造環境に秘めた想い

「木鹸」から始まった当社が医薬品製造環境を持つ…、そこには品質に対しての我々の覚悟が込められています。多様な化粧品が市場にあふれる一方で、「安全、安心、安定」を求める消費者のニーズは高まるばかりです。そういったお客様の要望に応えるためには、「医薬品」という高い目線からの品質管理が必要と考えました。もちろん、高水準を誇る医薬品製造環境を武器として、「医薬品受託」を事業の新機軸とする考えもあります。いつの時代も、先見性を持って今後の当社としてあるべき姿と考え、たえず進化していきたいという思いがココに秘められています。

2009【平成21年3月】
西川茂樹が4代目代表取締役社長に就任。
2009【平成21年4月】
株式会社メディコスからメディコス製薬株式会社へ社名変更。
2010【平成22年10月】
・関東工場第三期拡張。化粧品GMP基準の新工場を新設。
・東京本社を移転。利便性の高い環境へ。
関東工場 新工場

関東工場 新工場

東京本社

東京本社

2014【平成26年6月】
・大阪支社・大阪研究所を大阪市此花区島屋6丁目へ移転。
・東京本社・大阪本社の二本社制へ移行。
2014【平成26年7月】
・山添隆が5代目代表取締役社長に就任。
・西川茂樹が代表取締役会長に就任。
2015【平成27年3月】
・企業理念をリブランディングしました。
・埼玉県比企郡小川町に小川倉庫を新設。
2015【平成27年9月】
東京本社を池袋から成増に移転。東京研究所新設。
2015【平成27年10月】
中国工場「科思美碧优蒂化粧品(南通)有限公司」を竣工。
2015【平成27年11月】
ベトナム・ホーチミンに第二工場を竣工。
大阪本社

大阪本社

成増本社ビル

成増本社ビル

中国工場

中国工場

ベトナム工場(第二工場)

ベトナム工場(第二工場)

2017【平成29年7月】
大阪福島オフィスを開設。
2018【平成30年9月】
ベトナム ビナコスモ第三工場竣工。
2018【平成30年10月】
中国「科思美碧优蒂化妆品(南通)有限公司」第二工場竣工。
2019【平成31年4月】
上海島屋通商の移転に伴い、研究所を併設。
2019【令和元年7月】
セントラルオフィスを開設/本社機能を移転・大阪福島オフィスを閉鎖・大阪本社をユニバーサルオフィスへ改称。
2019【令和元年10月】
関東第二工場竣工。
2020【令和2年5月】
ユニバーサルオフィスを閉鎖・セントラルオフィスへ移転統合。
大阪 福島オフィス

大阪 福島オフィス

ベトナム工場(第三工場)

ベトナム工場(第三工場)

中国工場(第二工場)

中国工場(第二工場)

上海島屋通商・研究所

上海島屋通商・研究所

セントラルオフィス

セントラルオフィス

関東工場(第二工場)

関東工場(第二工場)

2020【令和2年8月】
技術センターを開設。
2022【令和4年5月】
神戸工場を稼働開始。
2023【令和5年11月】
博多営業所/研究所を開設
2024【令和6年10月】
上海島屋通商移転
技術センター

技術センター

神戸工場

神戸工場

博多営業所・研究所

博多営業所・研究所

上海島屋通商

上海島屋通商